北原雅長

「七年史」の著者の名前を意外なところでみつけた。
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彰義隊士河島由路の次男由親の長男眞の戸籍謄本の冒頭に、 「下谷区西町三番地ニ於テ出生父河島由親届出明治三拾弐年弐月弐拾七日同区長北原雅長受付 同年三月弐拾四日送付入籍」とある。 北原雅長は長崎市長明治28年(1895年)6月7日に退任し、明治31年8月に東京市下谷区長になったが、まさか親類の戸籍謄本で名前を見るとは思わなかった。 「七年史」<明治37年(1904年)4月発刊>は、文久2年(1862年)正月から明治元年(1868年)12月までの七年間の会津藩の動向を編年体で記した歴史書で、松平容保京都守護職の時、朝廷が会津藩をいかに信頼していたかの証しの勅書(孝明天皇から賜った御宸翰)の存在を明らかにした。御宸翰の件を含めて会津藩が逆賊ではなかったことを初めて公表するも、不敬罪で拘留される。 「七年史」の輯述例緒言に、北原雅長は、 此書全部二十巻明治二十九年八月より輯述に従事して三十六年七月に稿を脱せり    事しけき昨日の御世のまつりこと    世につたへむとおもふはかりそ と記している。長崎市長を辞めてから執筆し始め、河島眞の出生を受け付けた下谷区長時代も継続し、書名と同じく7年間の歳月をかけた。 個人的には、幕末維新時に彰義隊士を輩出した下谷地区と会津藩士との結びつきの妙を感じた次第。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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