今週の史書を訪ねては、幕末の日本人として稀有な体験をし、当時最先端の西洋を見聞してきた土佐の中濱万次郎(ジョン万次郎)の口述筆記、「漂巽紀畧」。
内容は、
ジョン万次郎らが天保12年(1841)に漂流してから、米国船に救助されて渡米、約11年後の嘉永4年(1851)に帰国するまでの経緯や、米国での生活・文化が書かれている。
帰国した万次郎から聞き取った話を基に、土佐藩の絵師・河田小龍が執筆した。
巻之一には、漂流中、上陸した鳥島で米船に救われるまでの状況を記し、彼等の航路を示した世界略地図および鳥島の略図を付している。
巻之二には、伝蔵兄弟らの帰国に関して述べ、同時にハワイ国オワフ島ホノルルの事情や米国滞在中の情況などとともに汽船や汽車の図と説明を載せている。
巻之三には、伝蔵たち四人と別れてアメリカ合衆国に入り、のちにいろいろな海を航海したことを記す。
巻之四には、万次郎らが琉球を経て帰国するまでの経過、事情などを記述している。
「漂巽紀畧」は、いわば「ジョン万次郎」物語のルーツともなった書物。
西洋の事情がそれなりに日本に入ってきていたとはいえ、別世界の話であるにもかかわらず、現実的で具体的なため、語る内容は山内容堂を驚かせ、緒大名を驚かせ、幕府を驚かせた本邦初の本格的な「西洋事情」ドキュメンタリーといえるものであった。
なお、写本は10冊認められるが、原本の行方は分かっていない。
写本の1冊は、1912年に米国の学芸員が日本で購入し米国で保管されている。
ところで、ジョン万次郎は、いつか大河ドラマの主人公にしたい人物だ。
幕末の多くの人物の中でも類まれな体験をし、鎖国状態の日本から見れば、当時すでに西洋式の生活になじみ西洋人の中で活躍をしている。
たとえば、嘉永6年(1853)のペリー来航の前にすでにアメリカ捕鯨船の副船長まで勤めており、航海術では当時の日本人では右に出る者はいなかった。
またその経歴から、日本初には枚挙にいとまがない。
日本人で初めてアメリカ東部で「市民レベルの教育」を受けた。
日本人で初めて民主主義を体得した。
日本人で初めて近代捕鯨に携わった。
日本人で初めて蒸気船に乗った。
日本人で初めて米国捕鯨船の副船長を勤めた。
日本人で初めて鉄道に乗った。
日本人で初めてアメリカのゴールでラッシュ時代に金の採掘に携わった。
日本人で初めてネクタイをした、
などなど。
なかでも、僕の関心事は咸臨丸での渡航の時のこと。
安政7年(1860)、日米修好通商条約の批准書を交換するための遣米使節団に従い、咸臨丸がアメリカに渡る。
万次郎は、咸臨丸に同乗したブルック大尉はじめ11名の米海軍軍人との通訳として乗り組んだが、遠洋航海に不慣れな日本人が船酔で苦しんでいる際には、米国船での経験を活かし米国人と共に船内の秩序保持に努めた(ただし、米国人との交友を日本人船員に訝しがられることを恐れ、付き合い方には注意していたとされる)。
ブルック大尉の日記には、「万次郎は一晩中起きていた。最後に唄まで歌って昔の生活を思い出して楽しんでいるのを見て私は驚いた」と書く。Manjiro stayed up all night singing a song and recollecting his old memory.
サンフランシスコに到着後も使節の通訳として活躍し、同行の福澤諭吉と共にウェブスターの英語辞書を購入したのを始め、主に工学、科学、戦争に関する書籍とともに、カメラ、ミシン等を持ち帰った。
この咸臨丸航海の時は、高祖母・小杉としの弟・雅之進18歳が、蒸気方見習士官として乗り組んでいたので、二人の交流がとても気になるのだが、残念ながら文書で記したものが残っていない。
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絵は三吉慎蔵と坂本龍馬です
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