輪違屋と新撰組と

京都宵山の日、白虎隊の会の京都支部主催の夏の納涼会があり、久し振りに京都に出かけた。 昼に待ち合わせ、会のメンバーである島原輪違屋の司太夫のご案内で10名ほどの仲間と輪違屋新撰組史跡めぐりを楽しんだ。 コースは、島原輪違屋-->壬生寺-->旧前川邸-->新徳寺 島原は、安政元年(1854)に失火で丸焼けとなり、この火事で角屋だけは残り輪違屋は3/4が焼失してしまう。 島原入り口の大門は当時はもっと北側に位置し、火災後、今の場所に移設された。
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最盛期は1,000人もの女性が働いていたという花街も、都の中心が東京に移って衰退し、今では入り口の大門、資料館となった角屋、ただ一つ営業している輪違屋だけが、当時の面影を残すのみとなった。 輪違屋を訪ねるのは実は2回目なのだが、初めて見るように目新しいことばかりだった。
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玄関を上がり一階奥に進むと、南側に庭があり、庭を巡って廊下が渡り部屋がある。
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ここ輪違屋は、置屋 (大夫や芸妓を置くところ、現在でいえばタレントの所属事務所)と揚屋(客を上げる料亭)を兼ね備えており、今では大夫を置いている日本唯一の場所だ。 「輪違屋」という名前は明治5年からの屋号で、その前は「養花楼」と云っていた。
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従って、浅田次郎の「輪違屋糸里」という新撰組を巡る小説は、年代からしてその題名がおかしいことになる。 明治5年からは揚屋を兼ているが、その前は、元禄元年(1688)の創業以来、置屋一本できた。 従って、幕末当時は置屋であり新撰組が遊んだとい事実はない。 輪違屋の一階に近藤勇直筆の書がある。
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文庫版「輪違屋糸里」の巻末にある対談での十代目当主高橋氏によれば、この書は、置屋であった「養花楼」の大夫が角屋に行って、近藤に書いて貰い持ち帰ったもの。 この手の書は沢山あったが紙屑屋に出してしまい、残った1枚を屏風に仕立てたとのこと。
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屏風の右側の書は、婦人色を好む、年季が明け16年経ち白髪が混ざっているのにここで働いている、の謂 この詩の内容から見ると近藤は吉原のイメージを強くもっていたようで、実際は吉原と違い、島原は折檻などもなく女性が働き易い場所で、年季が明けても出入りが自由であったという。
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左側の書は、十文字に交差した街道で内八文字で行く大夫道中を見て、きらびやかに着飾っている様をあたかも男が鎧を着て戦い行くのと同じように、これから戦いに行くのだなと詠じている。
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玄関を上がって直ぐのところにある二階への階段の手すりが素晴らしい造作。2階は工事中のため今回は1階のみの見学であったが、修復後またお邪魔したいと思っている。 壬生寺では、恒例の新撰組隊士等慰霊供養祭が終わって、新撰組パレードに向かう京都新撰組同好会面々の出発の様子を拝見した。  
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近くの旧前川邸では、田野のおじいさんの案内で土蔵の中を見せていただいた。ここは4回目になる。 元治元年6月5日の払暁、武田観柳斎が率いる新撰組が四条木屋町にある桝屋喜右衛門宅を急襲した。捕えた主は古高俊太郎と知れ、この土蔵で拷問を受けたとされる。風の強い日、火を放って参内する尹宮と松平肥後守容保を襲撃すると白状するが、武士としての矜持からか古高はそれ以上の詳細は白状しなかった。 ここが前川氏が千両箱を仕舞っていたという金庫
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重たい千両箱を上げるための滑車と縄
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史跡めぐりの最後に、旧前川邸の隣りの新徳寺を初めて拝見させて頂いた。
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本堂の屋根は、二条城と同じ流線型の珍しい形態をしている
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清河八郎が演説した本堂
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住職は御不在だったが、なかなか絵心があるらしく、本堂の横の間に、山岡鉄舟坂本龍馬清河八郎近藤勇土方歳三などの自筆のカラフルな絵が置かれていた。ここでは、新徳寺に相応しい清河八郎の作品を御紹介させて頂く
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             この日は非常に暑い日だったが水を十分補給し熱中症対策も怠りなく皆元気に史跡巡りを終えた後、懇親会で友好を暖めました。企画頂いた白虎隊京都支部長の中村さん、案内頂いた司大夫、どうも有難うございました。 「 人気blogランキング 」  に参加しました。よろしければ押してくださいませ。
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